愛への喜び

父の用事が終わるまで、僕は一人残ることになった。
どこかその辺で遊んでいなさい。ビルの外には出ちゃあだめだよ。僕は父の言いつけを守った。何しろ父は怖い存在だった。
僕は階段を使ってビル内をあちこち見て回ったが、面白いものはなかった。どのフロアも同じようなまっすぐな廊下に武骨な簡素なドアが並んでいるだけ。ドアの横の壁には会社名を示すプレートが張られていたが、そんなものにはまるで関心が持てない。僕は各フロアをくまなく歩きまわり、たくさんのドアの前をただ無言で通り過ぎた。
でも最上階のあるドアの前で、僕の足は止まった。そのドアのプレートに、はじめて僕が興味の持てる文字列が記されていた。そこには「水族館」と書かれていた。
ビルの最上階にある水族館。僕はぜひ入ってみたいと思った。それでもそのドアを開くまでには、かなり迷った。どことなくいかがわしく不気味だし、だいいちとても水族館がありそうに見えない。でも少し後で、意を決してドアを押し開けた。隙間からおそるおそる中を覗いてみると、正面の壁の窓と、その手前にある水槽が目に入った。一辺一メートルほどのさいころ型の水槽は、黒い鉄の台の上に乗せられて、中に何か見慣れない生き物が泳いでいる。他には何もない。広い部屋はがらんとしている。人の姿もなかった。


僕は中に入った。一歩踏み出したとき、すぐ横に誰かがいるのに気付いて、思わず立ちすくんだ。そこにいたのは、僕とさほど背丈の変わらない中年の男だった。灰色の作業服のようなものを身に着け、髪の毛は濡れたみたいに頭にへばりついていて、分厚く垂れ下がった瞼の下の目が、じっと僕を見据えている。その目は半月系に歪んでいて、どことなく笑っているようにも見えたが、本当に笑顔だったのかはわからない。
僕は戸惑ったものの、別にびくびくする必要はないのだと思いなおした。ここがあのドアが示す通り本当に水族館なのだとしたら、自分はお客なのであり、そうである以上、たとえ子供であっても、丁重に遇されてしかるべきだ。入館料がいくらかは知らないが、お金だっていちおうちゃんと持ってはいる。だから堂々としていよう、と思った。それで僕はその不気味な小男に、こんにちは、と挨拶をしたのだが、男は完全に無反応だった。もしかしたら銅像か何かかもしれない。僕はとりあえず水槽に歩み寄った。

得体のしれないよくわからない生物がその中で泳いでいた。最初はタコかと思ったが、よく見るとまるで違う。何しろタコより脚の数がずっと多い。それぞれの足には無数の吸盤があり、それらを風車のように回転させながら、水中を行き来している。
それぞれバラバラに動く脚の動きは蛇を思わせ、それらは複雑に入り組んで入り乱れ、ずっと見つめていると頭がぐらぐらとしてくる。僕は足の正確な数を数えようとしていたのだが、だんだん気分が悪くなってきて無理だった。気が付くと僕はしきりに両腕をこすっていて、寒さを感じていた。部屋の室温が不自然なほど低いことに気づいた。
脚はとにかくたくさんある、それでいいじゃないか、と僕は見切りをつけようとした。するとそのとき、背後で声がして、18本です、と言った。振り向くとさっきの男がいた。
18本、と僕は繰り返した。男は頷いた。つまりそれが生き物の脚の本数であるらしい。

僕はあらためて生き物を見た。とても18本とは思えない。もっとはるかに、ずっと多いような気がする。しかし考えてみれば別に何本だって構わないのだ。関係のないことだ、こんな気色の悪い生き物の脚が何本あろうと。見なければよかった、こんなものはこの世に存在しなければよかったのに、と僕は思った。もう帰りたかったが、あんまりすぐ出てくのも何となく失礼な気がして、仕方なく僕は水槽の前にただ立っていた。
男は僕の横に立ち、水槽の中を覗き込んでいる。その目つきはいかにもいとおしそうだった。愛する者だけに向ける愛情に満ちた優し気な視線、口元には満足げな笑みのようなものさえ浮かんでいる。この生き物を見つめながらそんな表情をすることは、演技でも僕にはできない。そして男はもちろん演技をしているわけではない。彼は純粋に愛しているのだ。このタコに似た不気味な、醜怪な、最悪の生き物を。
何が面白いのか、どこがいいのか、と僕は尋ねなかった。それは彼の愛であり、僕の愛ではない。彼の喜びは彼にしかなく、そこに僕が介入することはできない。

他に生き物はいないのですか、と僕は尋ねてみた。
男は我に返ったように僕の顔を見た。そして首を振った。いない、という意味である。
「こんなに広いのに?」
「ここはこいつだけの場所だからね。」男の答えはそれだけだった。
それ以上僕に口にするべき言葉もなかった。
僕は水族館を去った。別にお金は取られなかった。また来なさい、と男は言った。

 

図鑑を隅から隅まで調べたり、テレビの深海魚特集とかの番組などを食い入るように見たりしたが、18本の足を持つタコについての情報は得られなかった。
あのビルへ行く機会は二度となかった。何年か後に付近を通りかかったとき、ビルがあった一角は更地になっていた。すべての出来事が今では夢のように遠く感じられる。でもあの奇妙な小男が水槽の生き物を見つめるときの目つきだけは忘れることができない。あの視線は愛に満ちていた。僕は後にも先にもあれほど純粋な、衒いのない愛情の発露を目の当たりにしたことはない。そして僕はいまだにそんな対象を見つけられずにいる。