ある悲愴なお菓子作り

4月なのにどこか冷え冷えとしたキッチン。卵や小麦粉や砂糖をボウルの中でかき混ぜながら、僕はずっと泣いていた気がする。いや、たぶん実際には泣いてはいなかったのだが、少なくとも涙は流さなかったはずだが、つまり身体のなかで泣いていたのだ。涙がもしうっかりボウルの中に落ちたりしてしまったりしたら大変なので、懸命にこらえていたのだと思う。そうだ、その日僕はいつになく慎重だった。ほとんど神経症的なまでに、0.1グラムの誤差もないようにデジタルはかりで正確に材料の分量をはかったりした。
材料をオーヴンに入れて、あとは焼きあがるのを待つだけ。ちょうど午後3時ごろに、完成するだろう。僕はチェアに座り、テーブルの上に伏せてあった本を手に取って読みはじめた。数ページ読んだところで、また涙が出そうになる。もちろん本の内容のためではない。それは感動的な本ではない。
でもお菓子作りは悪くないと思う。それはまるで新しい生き物を生み出すような行為だ。しかもどこにでもあるありふれた材料でできてしまう。今日みたいな悲愴な気分のときには、最適な気晴らしだと思う。新しい生き物、僕は真っ白なつやつやの皮膚をした小型の怪獣のような生き物を思い浮かべていた。それは可愛らしくも、どこか物々しい殺気立った生き物をはらんでいる。
その日空はとても青かった。窓の外からは人がはしゃぐようなにぎやかな声がひっきりなしに聞こえていた。