村上作品は謎めいています

村上春樹の小説を読んでいるとき、私はときどき昔のテレビゲームを思い出します。かつて90年代には、ゲームについていろんな都市伝説的な噂がよく飛び交っていました。たとえばある敵キャラクターが、条件を満たすと仲間になるとか、ある地点である動作を行うと、秘密の裏ダンジョンに通じる道が開くとか、そうした噂です。僕はそれらを基本的にみんな信じていました。幼い僕にとってゲームは計り知れない奥行きを持つ迷宮のようなものでした。開発者さえ予期していない、謎の不可解な現象が発生したとしても、それは大いにありうることだと思っていました。
ゲームとは隅から隅まで人の手によって設計され開発されたものだということは、知ってはいたはずです。でも子供の私は、そのことをさほど信じていなかったのだと思います。ゲームの世界の内部において、すべて制作者が意図したとおりにことが運ぶものだとは思えずにいたのです。ゲームとはおのずから謎を生じさせ、謎を呼び寄せるものである、と考えていた。そして村上作品はその気分を思い出させます。とくに『ねじまき鳥クロニクル』に、もっとも強くそれが感じられるのです。あの小説では、わけのわからない、得体のしれない何かが、小説世界の裏面に、じっと息をひそめて待ち構えているような感じがします。それは私をちょっと怖がらせます。そしておそらくその怖さに惹かれて、私は何度もねじまき鳥を読み返してしまうのです。もっとも私はねじまき鳥に限らず、彼の作品はどれもすべて何度も読み返しているのですが。

とにかくあの分厚いねじまき鳥の第一部と第二部をはじめて読み終えたとき、私はほとんど混乱しました。物語としても小説としても終わったという感じがしなかったからです。ほとんど何も解決せず終わってしまったわけのわからないお話といった感想をもちました。それは最初から最後まで謎の物語でした。小説中に描写される様々な場面や出来事は、いつものように深く心に残ってはいたのですが。
一年後に第三部が発表されて読んだとき、ようやく作品が完結しました、と思いました。僕はそのことに安心した記憶があります。でも今思うと、第二部で終わったときのあの不自然さ、あの終わっていない感じ、あのわけのわからなさこそが、『ねじまき鳥』の最も大切な部分だったのではないかという気がしています。当時の僕には、わけのわからないものをそのままありのままに受け止める準備ができていなかったのです。謎は暗くて深い穴のように、(それこそ井戸みたいに)小説の中で、不気味にその口を開けていました。でも第三部において、その穴は埋められてしまいました。小説が着地したことにより、もっとも魅力的で神秘的だった部分も、何となく消失してしまった感じがします。今ではそのことが少し残念に感じる(勝手な意見ですが)。でもだからといって第三部が駄目なわけではもちろんありません。私はあの本もやはり数えきれないほど読み返しました(私の村上作品の本は、どれもボロボロなのです!)

ところで村上作品の主人公はよく「ひきこもる」気がします。世間から隔絶され外界と接点を持たず孤独に生活する状況がよく描かれます。『羊をめぐる冒険』の終盤の北海道の山の上の家の場面とか、『ダンス・ダンス・ダンス』の冒頭に描写される場面とか、『海辺のカフカ』の山小屋とかがあります。『ねじまき鳥』に至っては、主人公は井戸の底に降りて、そこにこもってしまいます。もともと僕が村上作品で最も惹かれたのは、そうした状況とか場面の描写が好きだったからです。私にはそういうひきこもり的な状況にあこがれる素質がもともとあったようです。