勿忘草

植物の名前を冠した小さな曲。弾こうと思えば指一本でも弾けてしまう。何しろ全部で4つしか音がない。その4つをひたすら何度も延々と繰り返す。それだけの曲。繰り返す回数は奏者にゆだねられている。一度だけでやめてもいいし、もしそうしたいのなら、48時間演奏し続けたっていい。他にも奏者には自由な解釈が許されている。というより自由に解釈するしかない曲だった。五線に4つの音符がそっけなく散らばっているだけ、強弱記号も発想記号もなく、音符の長ささえ指定されない。休符も小節線も終止線もない。

初めて譜面を手渡された時にはちょっと面食らった。彼が書いたほかの作品の楽譜とはあまりに異なっていたから。彼の楽譜はいつも数えきれないほどの音符で五線が埋め尽くされ、ほとんど一音ごとに強弱記号が指定されていたし、余白には細かな文字で、指示や注釈がびっしりと書き込まれていたのだ。

それでもその4つの音符のはざまに、彼の音楽に特有のある気配はやはり潜んでいた。それははるかな昔に絶滅したはずの動物の小さな息遣いを背後に聞くような、そんな気配で、彼のどの作品にも私はそれを感じる。彼がもうこの世にいないこととは、おそらく関係ない。彼が生きていたころから、いつも私は彼の作品に触れるたびに同じ想像をした。

その日、10時間にわたって私は4つの音符を繰り返し弾き続けた。演奏を終えたあと、部屋には10時間の間に集まってきたあらゆる滅びた存在の気配が、むせかえるほどに満ちていた。その空気にあてられて、その夜私はうまく眠れなかった。