海にて

長い距離を泳いで、ハルは崖の下にたどりついた。海岸から遠く離れ、海水浴客は黒い点のように見える。それらの点のうち、どれが自分の妻と子供たちなのか、見分けがつくはずもなかった。崖はおよそ20メートルほどの高さがあって、斜面はほとんど垂直だった。ハルは近くにあった岩の上にあがり、そこに寝そべった。遠くから人々の歓声が泡のように響いてくる。日差しが肌を焼くのを感じて、思わずハルは死について思いをはせる。日に焼ける感覚を覚えるとき、いつも彼は死について考えてしまうのだ。しばらくすると一人の女がそばを泳いで通りかかった。

ハルは声をかけた。すると女はいきなりケタケタという感じで笑い出し、しかし特に何も言わなかった。それでハルは女のことが気に入り、どこかへ行こうと誘いかけてみた。女は否定も肯定もせず、ひたすら泳ぎ続けていた。それでハルも再び水の中に飛び込んだ。さほど美しい女ではなかった。ハルは女としばらく並んで泳いだ。ときどきハルが、女の濡れた髪をかきわけて耳に口づけをすると、女はそのたびに身をよじらせて笑った。

海と空の境目のあたりに、ずんぐりしたクジラみたいな形の雲が浮かんでいる。雲は固まったみたいに動かず、眺めているとまるで時間が止まった気がした。
静かだね、とハルは言った。女は無言だった。
そのあとも彼らはいくつか言葉を交わしたが、多くの時間は黙っていた。彼らは誰の視界にも入らない場所で長らく二人きりだった。人々が泳いだり遊んだりしているのはずっと遠い離れたところだった。動くものといえばカモメやトンビばかり、彼らは鳴き声をあげながら空を漂っていた。

しばらく後で、ハルは女の髪を掴んで顔を思い切り水面に叩きつけ、水に浸けさせたまましばらく頭を押さえていた。彼女は手足を振り回して暴れたが、ハルはそれを制した。ずいぶん後でハルが力をゆるめると、女は水から顔を出して、溺れるわ、溺れて死んでしまうかと思ったわ、などと言いながら、ひどく笑っていた。
そのあと女はどこかへ去っていった。その背中に太陽が照りつけ、濡れた白い肌を光らせた。