彼は天国で自殺した

彼は所属する宗教団体に毎年多額の寄付をしていた。教義が天国の存在を約束していたためである。信ずる者は死後天国に運ばれ、あらゆる苦痛から自由になり、穏やかで静かな永遠の安らぎを得る。彼はその教えを信じた。それも非常に、熱心に信じた。彼は生活を切り詰めてまで寄付した。それほどまでに天国に期待していたのである。彼は死を非常に待ち遠しく思いながら生きていたが、自殺の罪を犯すことだけは踏みとどまった。自殺者は地獄に落ちる、そのこともまた、彼の宗教において厳然たる事実とされていた。

彼は自分でも想定しなかったほど長く生き、90歳を過ぎて死んだ。長く苦しいその生涯において、信仰心は最後まで一貫していた。死後、彼は意識だけの存在となって、暗く長いトンネルのような場所をひたすらさ迷った。そこを脱け出したとき、彼は再び肉体を伴って二本の足で未知なる土地に一人で立っていた。

目の前に山がそびえていた。溶けかけのまま凝固した氷のような形をした透明な山だった。頂上はピンク色の煙のような雲に隠れ、山を透かして見える空は薄い金色をしていた。それらめくるめく色彩のコントラストは目も眩むほど美しく、だから彼は確かに自分は天国にいるのだと思った。そう考えてはならない理由はなかった。そうに決まっているのだ。何しろあんなにたくさんの寄付をしたのだ。
それなのにどうしてだろう、期待していたほどの喜びに満たされないのは。生前から染みついた憂鬱な気分は今もつきまとっていて消えそうもなかった。彼はいまいち沸き立たない気分のまま、目の前の透明な山を登りはじめた。山道は険しく、足取りは重く、呼吸は苦しかった。彼の肉体は死ぬ直前の90歳の老人のままだったのだ。そして疲労や苦痛を覚えること自体彼には意外なことだった。あらゆるネガティヴな感情や感覚は、天国においては一切消え失せるものと、彼は信じていたのだから。そのことは教義でも何度となく繰り返されていたはずだ。もし天国に苦痛が存在するなら、どうしてその場所を天国などと呼ぶことができよう?あの教えは嘘だったのか、それともここは天国ではないのか?彼は直視することを避けていたその疑念と再び向き合う。そうだ、その疑念はここへ来て以来、ずっと頭にあった。この場所は確かに美しい。天国的な色と光に満ちている。それでもどこかに、いかがわしさのようなものが感じられる。光を透かせるガラスの山、虹色の川、金と白のグラデーションをたたえた空、不思議な形のピンク色の雲、それらは美しいが、表層だけの安っぽい俗的な美しさだとも思えた。いわば天国のレプリカのような、…要するにまがい物めいているのだ。わざとらしく、貧しい感じのする美しさだった。これが本当に天国なのだとしたら、あれだけの多額の寄付に値するものではない、と彼は思った。ということは、天国を夢見てひたすら耐え忍んできたあの長く苦しい人生は無意味だったのか?………でも最終的には、彼はそうした考えをまるごと封じ込めた。生前にもそうだったように、教義に違和感を覚えたり、疑惑を抱いたりしたときは、見て見ぬふりをして心の奥底に押さえ込む。それは彼の習性のようになっていた。その習性は死後にも失われなかった。彼はその場所を天国だと信じた。そして現在の自分は心安らかで、あらゆる苦痛から解き放たれている、と思い込んだ。

その後長い時間をかけて彼は山を登り切った。山頂からの眺めは美しかったが、やはり作り物めいていた。つやつやしてピカピカして、雄大で果てしなく、そしてどうしようもなく人工的な風景だった。
どうしてその後、彼はその山の頂上から飛び降りなくてはならなかったのか、なぜ今になってすべてを投げ出すように、自ら死を選んだのか。依然として苦しめる憂鬱な気分に耐えきれなくなったのか、あるいは抑圧し続けてきた疑念からついに目をそらすことができなくなってしまったのか、それとも単に、あらゆることに疲れ、飽き、倦んでしまったのか、誰にもわからない。彼は地面に叩きつけられて二度目の死を遂げた。その死も、死骸も、彼が信ずる神の目にさえ触れなかった。