ある思い出

小学校のころ、ハルは友人から本を借りて返さなかったことがある。彼は特にその本が気に入っていたわけでもないし、貸してくれた友人に意地悪をしていたわけでもない。返すという行為が思いつかなかった、という感覚がもっとも近い。
友人はことあるごとにハルに早く返すようと催促していた。その催促はだんだん真剣になっていった。友人は怒っていたのだ。怒るのは当然である。それでもハルは返そうとしなかった。その本を家の本棚にしまいっぱなしにしていた。友人がどれだけ訴えても、なんとも思わなかった。罪悪感さえ覚えなかった。

ある日の朝、学校にその本を持って行ったのは、ただの気まぐれだった。このまま返さずにいたら親や先生に言いつけると友人に脅されてはいたが、そのことを怖れたわけではなかった。それは気まぐれとしか言いようがない。家を出る前、何となくその本のことを思い出し、それで特に何を思うでもなく、それをランドセルに入れて学校に向かったのだった。

教室へ向かう途中の廊下で、本の持ち主の友人と出くわした。ハルは挨拶も何もなくいきなり、彼に本を差し出した。
友達は一瞬意外そうな表情をして、それから笑みを浮かべた。「何かと思ったよ。何をくれるのかと思ったよ。いきなりどうしたのかと思ったよ」などと言った。ハルが本を返す気になったことが、彼にはよほど意外であるらしかった。そしてようやくその本が戻ってきたたことを安堵してもいた。
そのあと、ハルは自分でも思いもよらない行動に出た。つまり友人に渡した本を、ひったくって奪い返し、それを真ん中から二つに引き裂いたのだった。
友人はあっけに取られていた。ハルはさらに執拗に本を破り、ページを切り離して細かく引き裂いた。紙屑が廊下に散らばり、通りかかった他の児童が不審そうな目つきで彼らを見た。最後まで友人は何も言わなかった。少なくとも何か言われた記憶はハルにはない。

そのあとハルと友人は同じ教室に入り、授業を受けた。
不思議なことに、ハルはその件について、誰からもどんな処罰も受けなかった。先生や親に叱られることはなかったし、本を貸してくれた友人とも、険悪になって二度と口を利かなくなるとかいったこともなく、ごく普通に関係を維持した。それはハルにとって不思議な思い出である。