高速バス

あるとき、僕は高速バスに乗っていた。車内は寝静まり、起きているのは運転手だけ。運転手は黙々とバスを走らせている。僕の座席からは彼の左腕しか見えない。ハンドルを握るその腕はときどき規則的に動いた。じっと見つめているとそれは生きている人間の腕というより精巧な機械の一部のように思えてきた。そして眠っているほかの乗客たちもまた、人間ではなくただの得体のしれないずんぐりした塊のように見える。それほど深夜の高速バスの車内には生命の気配がない。僕は寝付けずあちこちをぼんやり眺めていた。そうするうち、今このバスがほとんど完全な密室であることに、唐突に思い当たる。バス最後部の狭い座席に押し込められ、窓もドアも自由には開けることができず、車は朝まで止まる予定はない。今、どれだけ外に出たいと願ってもほとんど不可能なのだ。泣きわめいて暴れまわって気が狂ったみたいにふるまえば、あるいはバスを止めてもらえるかもしれない。でも運転手にも乗客にも迷惑がかかるし、何よりそんなみっともない、無様なことはしたくない。
ただでさえ僕は閉所恐怖症の気がある。狭い場所や、閉ざされて自分の意志で自由に出入りできない場所にいることを自覚すると、怖くなり不安になって、落ち着きを失ってしまう。深夜の高速バスは密室であり閉所だった。そのことを意識した途端に唐突な恐怖に襲われた。ここからは出られない、逃げられない。狭くて、自由に歩き回ることもできず、辺りは見知らぬ人ばかりで誰も助けてはくれない。それを思うと脂汗がにじみ、吐き気がして、叫びだしそうになった。頭がぐらぐらして、目が回り、呼吸が苦しくなった。そのとき僕は何となく窓のカーテンを開いた。それは何かを期待しての行為ではなかった。何しろ夜中だから、外を眺めてたところで何も見えないのだ。とうぜん窓の外は闇に塗りつぶされていた。形あるものなど何一つ視認できない。上を見上げると、空に星が光っていた。白く瞬く小さな光は、まるで砕いてでたらめにぶちまけた宝石みたいだった。その光を目にした瞬間に、パニックの症状はすっと消えてしまった。吐き気も恐怖心もなくなり、まるで魔法にでかけられたみたいに急に楽になった。さっきまで苦しんでいたのが嘘みたいに、ほんの数秒で僕はまったく元通りになっていた。
そのあと僕は少し眠り、目覚めた。すでに空は明るくなっていて、バスは休憩のためにインターチェンジに入った。外に出て、朝の空気を吸いながら僕は思った。あのとき、たとえば空が曇っていて星が見えなかったら、いや、あるいは座席が窓側じゃなかったりしたら、僕はどうなっていたのだろう。あのまま本当に狂っていたのだろうか、いや、どうなっていたかはわからない。とにかく僕は星によって救われた。僕は空を見上げながら、朝の明るさの中に身を隠してしまった星々に、感謝を捧げたのだった。