突如襲う倦怠

とあるピアノ協奏曲を聴いているとき、突然その曲に飽きた。飽きただけでなくほとんど嫌悪感を覚えた。どうしてこんなつまらないものをありがたがって聴いていたのだろう、と思った。あと数分で終わるところだったので、再生を止めることはしなかったけれども、もう集中力は失われていた。音楽は耳を素通りしていった。
…………そうだ、10年とか20年前の曲ですら古く感じるのに、100年とか200年とか前に書かれた曲が、つまらなくないはずはない。そんなものは古いなんてものではなく、いままで自分はそれを美しい優れたものとして、真剣に鑑賞していたが、それは単なる「ふり」だったのではないかと思った。演技のようなものだった。モーツァルトとかベートーヴェンのような、偉大な作曲家の作品でさえ、耐え難いほど退屈に聞こえることがある。あるいは退屈なパートが存在する。たとえば交響曲とか協奏曲の終盤によくある、テンポの速いさんざん盛り上げるような展開、ああいうのはどうしようもない。あんなものを楽しんで聞ける人間は現代にはいない。どんな才能のある演奏家が、立派な楽器を使って、どんな斬新な解釈で演奏したとしても、面白くしようがない。我々はただ、楽曲はとりあえず最後まで聞かないといけない、という暗黙の了解のために、あのような退屈なパートに最後まで付き合ってあげているのだ。過去の偉大な音楽家を批判するつもりはない。クラシック音楽の歴史と理論には敬意を払うけれども、どれだけ美しく崇高でもそれが何百年も前に作曲されたものであることは事実で、古臭く感じるのは当然のことだ。

以前に妻がクラシック音楽が嫌いだと言ったとき、僕は彼女のことを愚かだと思った。この素晴らしさを理解できないのはもったいないし、気の毒だとさえ思った。あのとき僕はほとんど軽蔑していた。でも今、僕はその軽蔑を自分自身に向けなければならない。少なくとも彼女は自分に正直だった。