虐待のある世界

娘が嫌に沈んだ調子でいたのでどうしたのかと問うと、猫をいじめる人がいる、と答えた。それで僕は、家で飼っている猫のBWが、誰かに悪戯されたのかと思ったが、そうではないらしい。
そばにいた妻が事情を尋ねて、ユイは話しはじめた。なんでも学校から帰る途中、歩道の隅に猫の死骸を見つけたのだが、その猫は縄を首で巻きつけられた状態で死んでいたという。一緒にいた友達が、悪い人が虐めて殺したのだ、といった意味のことを言って、ユイはそんなことは信じられなかったが、友達があまりに怒っていたので、本当なのだと思ったらしい。
どうしてそんなことをするの、と娘は悲しげな声で言う。つまりどうして猫を虐めて殺すような人がこの世にいるのか、と彼女は疑問を投げかけているのだ。彼女は世の中に一般に存在する動物虐待を問題にしていたのだ。
その問いに答えることは難しかった。動物を虐待するのは、性質の歪んだ、ねじくれた異常な人たちだと決めつけてしまうことはできる。純粋に楽しみのために動物とか弱いものを虐めて喜ぶ人はいる。その事実は不愉快だがどうすることもできない。でもそうした人々だって、生まれながらにして残忍で異常だったわけではないのかもしれない。彼らもまたどこかで虐げられ傷つけられ、そのために自分より弱いものを虐めるようになったのかもしれない。それだけではないし、また別の可能性もある。たとえば死んでいたその猫は、どこかの家に入って悪さをして、家の主の怒りを買って殺されてしまった、といったことかもしれない。僕の知り合いに、決して動物が嫌いなわけではないのに、近所の犬の明け方の遠吠えのために毎日のように眠りを破られて、その犬に殺意を抱くようになった、と言った人物がいた。僕はその話を聞いて、もし自分が同じ状況に置かれたら同じことを考えるかもしれないと思った。つまり異常な人だけが動物を虐待するわけではない。
そうしたことを、6歳のユイにどう話せばいいのか僕は考え込んでしまった。
いつしか妻までいっしょになって怒りだしていた。許せない、同じ目に合わせてやればいいわ、そんなことした人の首を絞めてやりたいわ。
その憤りもまたもっともなものである。考えないようにするしかない、と僕は言った。残念ながら、そういう人はいる、動物を虐める人はいる、でも他にも残酷なことや不愉快なことって、世界には山ほどあるんだよ。僕らはたまたま目にせずに済んでいるだけなんだよ。そういうのにいちいち腹を立てていたらきりがない。猫や動物が大好きで可愛がっている人だってちゃんといるんだ。いや、そういう人のほうがもちろんずっと多い。だから無視するしかない。考えないようにするしかない。楽しいことを考えて、忘れてしまうのが一番だよ。
僕にはそんなことしか言えなかった。

世界は牧歌的な場所ではない。悪意や暴力はいたるところにある。ユイは今日そのことを知ってしまった。どんな子供も生きていく過程で世界が善意だけに満ちた場所でないことを知る。それは悲しいし残念なことだが、避けられないことでもある。これから先、娘も息子も生長するにつれ、さらに様々な悪意に触れることになるだろう。美しいものや綺麗なものばかりを見て生きることはできない。でも悪意や暴力に必要以上に関心を持つことは無意味な消耗だから、美しいものや、より善きものの存在を信じて、それを探して生きるほうがいい。そうしたことを僕はユイに言いたかった。