南へ向かう、流される

ある日ボートで海から漕ぎだしたら、そのまま流されて帰れなくなってしまい、でもそのことでパニックになるでもなく、さほど残念でもなく、不安でもなかった。そんな風に自然に、非常事態を受け入れたのは、未知なる状況への好奇心からなのか、それとも人生に対するあきらめからなのか、何にしても流されるところまで流されればいいと思った。太陽は熱く、空と雲の境目はやたらくっきりとしていた。日に日に温度が上がり、日差しも強まっていく気がすることから、おそらく自分は南へ運ばれているのだと思った。僕はかつて住んでいた土地より南方へは、生まれてから一度も行ったことがなかったので、つまりこれがはじめての南への旅ということになり、そのことには心が躍らないでもなかった。

夜になると怖ろしいほどの数の星が空を覆い、それらは銀色の雨粒のようで、いつまでも見飽きなかった。眠るのが惜しく感じられるほどの星空というものがこの世にはあり、それだけでもこの漂流旅行の意義を感じた。

ときどき不穏な事態にも出くわした。何度かボートが大きく揺れることがあって、それは波の揺れではなく、もっと大きな、より得体のしれない力によって生じる揺れのように思われた。海中で巨大な生き物がボートの底を掴んでゆさゆさと揺らしているような揺れ方だった。海面には変化らしい変化はないし、不審なものも見当たらず、しばらくすると揺れも止まった。とにかく海というのは得体がしれない。


そうやって何日漂流したのだろう、太陽の熱は日に日に増してゆく。日に焼けて真っ黒になった肌の皮が剥がれ、食べるものも飲み物もろくにないために骸骨のように痩せて、あてもない漂流は終わりそうになかった。海原に形あるものは何も見えない。ときどき大きな鳥がやって来た。僕は拳を振り上げて抵抗したが、鳥は嘲笑うみたいな鳴き声を上げながら、僕の手がぎりぎり届かないあたりを飛び回り、まるでからかわれているみたいだった。おかげで退屈せずには済んだが、ずいぶん消耗した。

あるとき疲れ果てて船底に横たわって眠っていると、顔に水滴が落ちてきて、それで目が覚めた。雨はみるみるうちに激しくなり、周囲に滝のように降り注いで視界は全く失われ、ボートの中も水でいっぱいになって、その重みのために船は沈みかけていた。それは実に地球の創成期を思わせる豪雨だった。そして僕は実際にその時代に、つまり数十億年前の地球に一人きりでいる気分でいた。すでに水に大部分沈んだボートにしがみつきながら、半分泳ぐような態勢で、僕はいつやむともしれないその豪雨に打たれていた。そのとき僕を襲っていた感情は、不可解なことではあるが、あるいは郷愁と呼べるかもしれなかった。

 

🚣

 

目が覚めたとき、海岸沿いに広がるぬかるみの中に、身体は半ば浸かっていた。小さな島と海との境目に広がる半月形のぬかるみ地帯に、僕は打ち上げられていたのだだった。ボートも、その残骸もどこにも見当たらない。いつ、どうして自分が気を失ったのかまるで思い出せなかった。僕はぬかるみの上にしゃがんで自分の身体をひとつずつ点検した。いちおうどの部分も不自由なく動かせたし、怪我らしい怪我もなかった。喉が乾いていることを別にすれば不調もない。そう、喉の渇きはひどいものだった。それはひどく僕を苦しめていた。水を求める思いだけで生きているようなものだった。身体を引きずるようにして、重くまとわりつく不快なぬかるみ地帯を脱し、乾いた砂浜に出ると、そこでまた力尽き、倒れるように横になった。とにかく喉が渇いてどうしようもない。あたりに水分と言えば泥水と海水しかなかった。目を閉じて耐えていたが、このまま死ぬのだと思った。

ごく軽い、ささやかな足音によって、僕は目を覚ました。首を曲げて辺りを見回すと、島の中央に生い茂る森のほうから、人影が近寄ってくるのが見えた。この島は無人島ではなかった。人が住んでいたのだ。
近づくにつれ、老人の風貌がよく見えるようになる。その男はおそらく今の僕より痩せていて、ほとんど骸骨が歩くようだった。手に何か盃のようなものを持っている。彼は漂流者である僕を発見し、水を持ってきてくれたのだと思った。僕は急にまた力がみなぎるのを感じた。
やがて老人は立ち止まった。彼は横たわった僕のすぐへりに立って、黒く開いた穴のような目で僕の顔を見下ろしている。僕は何か言おうとしたが口にするべき言葉はなかった。それに口の中がひどく乾いていて、声を発することもできそうになかった。僕は老人が手にした盃だけを見ていた。その老人が何者であろうと僕が考えていたのはその盃の中身を飲ませてもらうことだけだった。場合によっては殺して奪い取ってでも飲んでやろうと考えていた。でもそんな物騒な手段に出る必要はなく、彼は僕の顔の上で盃を傾けてくれた。まっすぐに液体が流れて僕の顔の上に落ち、僕は大きく口を開けてそれを受け止めた。液体はなまぬるく、味もしなかった。本当に水なのか、それとも別のものだったのかはわからないが、とにかく一滴もこぼさないように僕はその透明な液体を口に入れた。それほど美味いと感じた飲み物はかつてなかった。老人は液体を注ぎ続け、盃には想像以上に多くの水がたくわえられているようだった。飲んでも飲んでもじゅうぶんには感じず、僕はひたすらそれを飲んだ。

盃が空になると、何も言わないまま老人は背を向けて立ち去った。島の中央辺りの森に向けて歩いていき、ある地点で景色に吸い込まれるように老人の姿は消えてしまった。僕はまた一人きりになった。
歩き回れる元気を取り戻していたので、僕は海岸を一周してみたが、乗ってきたボートはどこにも見当たらず、それほど大きくもない島は、完全な無人島であることがわかった。夜が近づいていて、砂浜に戻ってきた僕は沈む夕日を眺めながら、ひたすら孤独だった。あの老人と再び会えるとは、もう信じられずにいた。