真っ黒ジャングル (Pitch-black Jungle)

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取材で訪れた南米のある土地で、不思議な石の話を聞いた。僕にその石について教えてくれたのは付近の村に住む老人だった。その老人は90を超える高齢だったが、ずいぶんちゃんとした英語を話し、その言葉つきや、眼光の鋭さは、他の村人とは異なる際立った知性を感じさせた。もっともそれは老人が正気を保っている間だけのことである。老人は一日のうち何時間か、救い難い狂気の発作に襲われる。その間、彼の意識は全く混濁している。まもな言葉を発することはなく、ひたすら大声で叫びながら部屋中をのたうち回ったり、または部屋の隅にうずくまって呪文のような意味不明の音声をぶつぶつと唱えるばかりになる。老人が発作に陥ると、ただしかるべき時が過ぎるのを待つしかない。
何度かの狂気の発作を挟みながら老人は石について語った。ジャングルの最深部に眠るというその石は、くまなく真っ黒で、柱のように巨大であり、宝石のように妖しい輝きをたたえているという。老人はときおり、まるで今も眼前にその美しい石を目にしているかのように、陶酔したような表情を浮かべた。老人が最後に石を見たのは50年以上も前のことであるらしい。それほどの時間が経過した後でも、その体験は彼に強烈な余韻を残していることがうかがえた。

話を聞きながら、僕は幼いころからの冒険好きの血が騒ぐのを感じた。僕は冒険がしたくてカメラマンという職業を選んだのだ。しかしいくら仕事で世界中を飛び回ることが多いとはいえ、現実にはそんな血沸き肉躍る冒険の機会などめったにない。だからこそ僕は未知なる予感にわくわくしていた。
僕は森の奥へ向かうことを宣言したとき、人々は反対した。同行していたライターも編集者も反対した。村人たちはそもそも狂った老人が語る石の話など初めから信じていない様子だった。これまで多くの旅人が老人の話を聞いてジャングルの最深部を目指して旅立っていったが、誰一人として帰ってこなかったという。
僕は考えを変えなかった。老人だけが僕の決意を支持してくれた。彼はジャングルの地図を書いて僕に渡してくれた。最深部まではおよそ10km、途中に大きな川があり、川沿いに南西に進むと暗い森の中にひときわ暗いトンネルのような細い道がある。そのトンネルをくぐった先が石のある地帯だということだった。そうやって説明されると簡単にたどり着けそうに思える。おそらく誰もが同じように考えたのだろう。

出発の日、僕は一人きりだった。もちろん誰も同行しない。人々はどこかみな悲しげな顔をしていた。僕は暗い森の中に入り、一人で歩きだした。僕はただ石をこの目で見て、それを写真に収めるだけで帰ってくるつもりもなかった。できればその石を何らかの手段で、たとえば砕くか割るかして、ひとかけらだけでも持ち帰ってやろうと、ひそかにもくろんでいたのだ。もちろんそんなことは誰にも言わなかった。
さほどの困難もなく川に着いた。川沿いで一匹の大きな蛇に出会い、僕はややひるんだが、持っていたナイフでその気味の悪い生き物を切って殺した。蛇は血を流して地面に伸びた。森の暗さのせいかその血は真っ黒に見えた。
奥へ潜るにつれてますます暗さが増してゆく。懐中電灯が照らす光の外側は、文字通りの暗黒だった。老人は言った――いいか?暗闇を怖れる必要はない。闇は本質的にはあなたに害をなすものではない。闇に親しみ、そのふところに潜り込み、それを抱擁すること。それが大事だ。そうすればあなたは迷うことはない。
その言葉を思い出しながら歩いた。何度もあきらめかけながら闇を潜り続け、やがて道の端に、木の枝や蔦が絡まり合ってアーチ状をなす細長い通路を見つけた。まぎれもなくそれが探していたトンネルだった。僕は迷わずそれをくぐる。道幅は狭く、天井も高くはないため、ずっと腰をかがめていなくてはならない。植物が作りあげたこのトンネルの内部ではひっきりなしに音が響いていた。地を這うような低い音や高く鋭く一瞬で消える超音波みたいな音、それらはおそらくジャングルに生息する鳥や虫や動物の鳴き声や足音だったが、それらの音は闇とあいまって想像力を刺激し、悪夢めいた異常な幻を眼前に描きだした。僕はそれらの幻影を振り払いながら闇の奥へ向かって歩き続けた。もしはたから見ている人がいたら、僕の姿は勇敢な人物のように見えたかもしれない。しかし実際にはその反対で、どうしようもなく怖かったからこそ、足を止めることができなかったのだった。

ようやくトンネルを抜けて、開けた場所に出た。その場所が目的地だった。一目でそれとわかる場所だった。黒く細長い、柱のような物体がそこにそびえている。それが目的の石であることに間違いはなかった。確かにその形は樹木に似ていた。表面はガラスのようにつるつるして透き通っていて、近づいて覗き込んでみると石の内部には無数の小さな光が星屑のように瞬いていた。光はそれぞれがすべて別の色を浮かべて、まるで生きもののように、黒い空間の内部を自由に運動していた。それらが描き出す色とりどりの流線が幹の内部に満ちて、その光が外に流れあふれ出て、暗い一帯を妖しげな明るさで満たしていた。
星のような光を見つめながら、僕は長くその場に立ち尽くしていた。夢をみるようなとらえどころのない時間が過ぎていった。それが数分だったのか数時間だったのかはわからない。帰ってこなかった冒険者たちはもしかしたら、森で迷って遭難してしまったわけではないのではないか、この石の美しさに魅せられるあまり、ここから離れたくなくなったのではないか、僕はそんなことを考えていた。
首に提げていたデジタル一眼レフを持ち上げ、シャッターを押した。その直後にある気配を感じた。明らかに人間ではない何かの気配があたりにたちこめていた。それらが僕を取り囲み、無言で僕を見下ろしている。いや、彼らは今現れたのではない。最初からずっとここにいたのだ。今はじめて僕がその存在に気づいただけだった。
美をたたえる気分は恐怖によって上書きされた。身体は凍りついたようになり、僕は振り向くこともできない。一瞬のうちに僕の頭は空白になった。そして僕はすべてを忘れた。自分が誰で、どこから来て、何を目指していたのかも。誰を愛し、何を求めて生きてきたのかも。
不思議と恐怖心はなかった。すでに僕は運命を受け入れるつもりでいた。人はいつか必ず死ぬ。たいていの場合、死に方もその時期も選べない。これはそれほど悪い終わり方ではない。もっとひどい死に方ならいくらでもあるのだ。僕はあの老人が狂気に陥った原因を知った気がした。
何らかの力によってストラップが切れて、カメラが地面に落ちた。
一枚だけ撮ったあの写真が、誰かの目に触れることはあるだろうか?それが僕が最後に考えたことだった。目を閉じると、今度こそ完全な暗黒がやってきた。