バイクのエンジン音

山奥の小さな池の水面に朝もやが立ち込めている。その白い分厚いもやを切り裂くように、遠くからエンジン音が響いた。まだ夜も明けきらない時刻、この場に不似合いなその音は、山に住む生き物たちの眠りを破った。

音は近づいてくる。用心深い動物たちは草木の陰に身を隠したまま、ひたすら耳をそばだてている。やがてもやの向こうから黒々としたバイクがぬっと飛び出してきた。痩せたシルエットの人物が、その乗り物にまたがっていた。バイクは細い坂道を登り切り、池のすぐそばに停車した。エンジン音が止むと、あたりに静寂が戻った。

運転者はバイクから降り、ヘルメットをかぶったまま池のほとりに立った。手には何か小さな木の箱のようなものを抱えている。その人物は、しばし物思いに沈むように、立ち尽くしたままじっとしていたが、やがてその箱に手を突っ込み、中から何か黒く細い糸の束のようなものを、ひとつかみ取り出した。そしてそのままその手を池の上にかざし、開いた。糸の束が手から離れ、しかしまっすぐには水面に落ちずに、はらはらと舞ってあたりを漂った。その動きが、かすかにそこに吹いている風の存在を教えた。黒い糸の束は人間の髪の毛によく似ていた。

その人物は同じ動作を何度か繰り返し、やがて箱の中は空になったようだった。人影は池に背を向け、再びバイクにまたがり、エンジンを作動させる。またけたたましい音がとどろき、バイクは走り出した。すごいスピードで坂道を駆けおりて、まだ残っていた朝もやの向こうに消えた。

音は遠ざかってゆき、やがて聞こえなくなった。その頃には、遠くの山際はぼんやりオレンジ色に明るくなっていた。