魔物に乗って野を駆ける人

荒涼とした土地に一人きり、魔物にまたがって進みながら、何度も似たような孤独を味わった。雪道で、トンネルで、山奥で、暗い白夜の土地で……。荒涼であるがゆえに、寂しいがゆえに、ある快さを呼び覚ます景色が存在する。旅の過程でバドはそのことを学んだ。そんな土地を訪れるたび、その快さが胸に塵のように降り積もり溜まっていた。バドはその塵の山をさらに深く高くするために旅を続けていた。

たどり着いた湖のほとりで、バドと魔物は水を飲む。湖面に写った髭と埃と砂だらけの自分の顔を見て、彼は久しく自分以外の人間の姿を見ていないことに思い当たった。一緒に旅してきた魔物を除けば、命あるものを最後に目にしたのがいつだったかさえ思い出せなかった。鳥の一羽、虫の一匹さえ生息していない地方をバドは魔物とともに何週間もかけて通り過ぎてきたのだ。
ときどき強い風が吹いて、砂埃が舞い散り視界は黄土色に煙る。地平線に囲われた湖の周辺のほかには植物も生きるものの姿もどこにもない。荒野のところどころに、無理やり砕いて捨てたみたいないびつな形の大きな岩が地面に転がって砂をかぶっていた。これまで旅の途中に通過した土地の中でもひときわ不毛で、徹底的に人跡の途絶えた地方であるらしかった。湖の周辺はまさしくオアシスだった。
湖に手を差し込むと水鏡に映じた姿は破れた。バドは念入りに何度も顔を洗った。魔物が口にくわえた赤い果実をそばに転がした。あたりを見渡してみると、同じ赤い実がいくつも成った木がすぐ近くに生えていた。魔物はその長い首を伸ばして口で実を摘み取り、音を立てて齧っていた。バドもその実を水で洗って食べ、そして思う存分水を飲んだ。旅の間、基本的にいつも彼らは飢えて渇いていた。そして次にオアシスにたどり着くのはいつになるかもわからない。彼は空っぽの皮袋に水を貯えた。

湖のほとりで一夜を過ごしたあと、バドと魔物は旅を再開した。荒れ果てた景色をしばらく進むうち、彼らは奇妙な場所のそばを通りかかった。地面にまるで大きなスプーンでごっそりすくい取られたみたいな深く大きな穴が開いていたのだった。穴は直径は30メートルほど、深さは20メートルほどもあり、すり鉢状になっていて、外周の崖に沿って、明らかに人工的に整えられた下り坂が底まで続いていた。その穴の底の端のほうに、太い石柱を何本か組み合わせて作られた真四角な建物のようなものが建っていた。建物は箱型をしていて、窓も何もなく、矩形の入り口が一つだけあって、そこから暗い内部が覗いている。
ふとバドが魔物の目を覗き込んだとき、その瞳は紫色をたたえていた。それまで彼は魔物の目の色が変わるところを見たことはなかった。そしてどういうわけかその色を見た途端に、彼は迷っていた心を決めた。魔物にまたがったまま、バドは穴の底へ続く坂道を下りはじめた。
ところどころ粗く草に覆われた固い地面を踏みしめながら、一人の人間と一頭の魔物は一歩ずつ建物へと近づき、やがてその前に立った。建物は想像していたよりずっと新しいようだった。石はさほど汚れてもなく、苔むしてもいない。四角い入り口を通じて外の地面がそのまま建物の内部まで続いていた。バドは中を覗き込んでみたが、暗闇の他には何も見えなかった。物音もしない。
魔物の目の色は依然として光っていた。その色はさらに深みを増したようにも思えた。バドは魔物の背中から降り、手綱を引きながら建物の入り口をくぐった。
中は暗く、空気は重く湿っていた。狭い部屋の真ん中に、石でできた高さ2メートルほどの細い角柱のようなものが三本、地面に突き刺さっていた。いずれの柱も上端が切り取られたように斜めに尖っている。表面はまるで濡れているみたいに、不自然なほど滑らかだった。そしてそれら三本の柱が形作る三角形の中心に、真四角の立方体の石が置かれていた。一辺は50センチほどで、材質は柱と同じ石材であるようだった。さいころ型の石の上を向いた表面には何か細かい文字が刻まれていた。一面をびっしりと埋めたその文字をバドは読もうとしたが、できなかった。その文章は明らかに彼の知らない言語で記されていた。
石に触れてみると、冷たい透明なさらさらした液体がバドの指に付着した。徹底的に乾燥したこの砂漠地帯の真ん中にあって、この石だけはこれまで一度も乾いたことがなかったのではないかと思われた。なぜかバドは息苦しさを覚え、逃げようかという気分になったが、魔物は動こうとしなかった。その生き物は石碑の前にしゃがんだまま、相変わらず目を光らせながらじっとしていた。やがて魔物は首をもたげて、立方体の石を真上から覗き込むような仕草をした。
バドはその様子を見ていた。明らかに魔物は刻まれた文字を読もうとしていた。いや、確かに読んでいた。そう確信する根拠は何もない。ただ興味深げに見つめているだけかもしれない。しかしその目の光に、バドは知性の輝きを見た気がした。この生き物は読むことができるし、理解している。この異邦の地で何者かがここに残したメッセージを受け取ろうとしている。そして瞳の色はさらに深みを増していった。
バドはそばで待った。外で吹き荒れる風の音は建物の中では異なる響き方をした。それは風の音というより無数の虫の鳴き声を重ねたような、あるいは千本か二千本のヴァイオリンがそれぞれ微妙に音程をずらしながら一斉に高音を鳴らすような、そんな音だった。あるいは神の声とはこのようなものかもしれないとバドは思った。

夕方が過ぎ、石室の内部はますます暗くなった。黒い絹のような闇がバドと魔物に向けてまとわりつくように忍び寄ってきた。その闇の中に二つの光る瞳が浮かび上がっている。それは今や水色でも青でもなく海の底のような濃い群青色をたたえていた。バドははじめて魔物が、長い旅を共にしてきたその魔物のことが「異物」に見えた。旅の道連れとして、言葉は通じなくても魔物と心を通じ合わせることができていると彼は信じていた。しかしバドはこの魔物について何も知らない。魔物がどこから来たのかも、何という種に属する生物なのかも知らない。だだっ広い荒野の片隅で出会い、それ以来共に旅を続けている。それだけの関係だった。はじめからその生き物は彼にとって完全に異物だった。そのことに今初めて彼は思い当たった。

バドは石室の外に出た。夜のひんやりした空気が肌を撫でた。空には戸惑うほどたくさんの星々が浮かんで彼を見下ろしていた。石室の中に魔物を残したまま、バドは歩きだした。するとあの「神の声」が背中から吹き付けた。
一度も振り返ることなく坂道を上りきり、ついに穴から脱したとき、バドの眼前には夜の無人の荒野が広がっていた。