電話機

家の近所の坂道のふもとに、小さなアパートがあるのですが、僕は通りかかるたびに、いつもその二階の一室に視線を向けてしまいます。その部屋の窓はいつも開け放たれていて、坂道の中腹からだと、室内のかなりの部分が見渡せるのです。その部屋はひどく散らかっています。たくさんの家電製品が無秩序にあちこちに置かれ、段ボールがいくつも積み重ねられ、床には衣服やらゴミ袋やらわけのわからない紙片やらが散らばって、文字通り足の踏み場もないといった有様です。そしてどういうわけかいつも、人の気配がしません。僕が無遠慮に部屋を覗き込んでも、さほどうしろめたさを覚えないのはそのせいです。

ある日の午後、その部屋の前を通りかかったとき、音が聞こえました。開け放たれたままの窓から、電話のベルのような音が、外に漏れているのです。ベルの音は妙にくぐもっていました。そしてやはり部屋の主は不在らしく、電話は鳴り続けています。僕はベルの音を聞きながら、その部屋のどこかにあるはずの電話機を想像しました。それはきっと幾重にも重なったいろんな物の奥底に、化石のように埋もれていることでしょう。部屋の主でさえ(その人物が本当に存在するのか不明ですが)たやすく掘り起こせないようなところに、押し込まれているのでしょう。だからベルの音はあんなにくぐもっているのです。その音はまるで電話機が助けを求めて誰かを必死に呼んでいるようにも思えてきました。
ベルの音はいつまでもやまず、僕はやがてその場を去りました。