かけがえのない思い出

ビルに囲まれた駐車場からは空の断片しか見えない。カー・オーディオのスイッチをONにすると音楽が流れ出した。彼女はシートにもたれかかり、目を閉じる。そして何度目かのため息。
ひどく疲れていた。休日まであと3日もある。その日になったところで予定はないし、きっとまた一日ひたすら眠って過ごすことになるだろう。女性シンガーは失われたものごとについて歌っていた。過ぎ去ってしまった時間、破れた関係、失われた思い、…囁くようなその歌声に耳を傾けていると、心の奥のいちばん柔らかい部分が、少し波打つような感じがした。
気が付くと目から涙が流れていた。水滴はタイトスカートの上に、妙に重いボトンという音を立てて落ち、しばらくそこにとどまっていた。

彼女は失ったものを思い出そうとした。古い友人や恋人、昔に訪れた土地や、過ぎ去ったある種の特別な、輝かしい時間。でも記憶はひどく漠然としていた。あまりにあいまいなので、懐かしいという感じさえほとんどしなかった。別の星で起こった出来事みたいだった。頭に浮かぶのはささいなどうでもいいことばかり、誰かの何気ない言葉、無意味な出来事、生活上のこまごまとした数字。

空の切れ端はいつしか濃い紫色に変わっていた。彼女は身を起こしてハンドルを握る。またもう一つのため息、でももう涙は出ない。…もっと泣いていたかったのに。