雲が赤く染まる時

雲を貫く山のてっぺんに、城のようにそびえる大きな家。男はそこに一人で住んでいた。妻は先立ち、子供は死に、日常的に彼が接するのは家政婦の老婆だけ、彼は多くの時間を孤独に過ごした。家からは雲を見下ろすことができる。時には目に見える景色のすべてが雲に覆い隠されることもある。そんなとき、家はまるで白い海の真ん中にポツンとたたずむ絶海の孤島のよう。その日も彼は庭のベンチに腰かけて景色を眺めていた。ちょうど秋の午後の深い時刻のことで、その時期には夕暮れになると、太陽の光の加減によって眼下の雲が一面燃えるような赤に染まることがある。彼はバーナーでお湯を沸かして紅茶を作り、それを飲みながら、その瞬間を待っていた。やがて空の端のほうがオレンジ色に変わり、その色は徐々に深く、濃くなりながら、海のようにのっぺりした雲の領域の全面へと、広がっていった。そしてやがてどこから見ても赤と呼ぶほかはない赤色が、視界の大部分を支配した。彼はその雄大な現象に圧倒された。雲は赤く、まるで血を浸したみたいだった。彼は半ば呆然としながら景色を眺めていた。そしてふと我に返ったとき、彼の衣服は血に濡れていた。

最初彼は、飲んでいた紅茶を吐き出したのかと思った。咽喉とか横隔膜の何かしらの反射によって、勝手に紅茶が吐き出されたのではないかと考えた。でもその液体の色や重み、粘り気と匂いは、どう考えても紅茶ではなかった。明らかに血液だった。手で口を拭うと、同じ液体が付着して、口の中に苦い味がした。それはまぎれもなく彼の口から流れ出たのだ。苦しみも違和感もなく、血はごく自然に口からほとばしったのだ。
体調はまったく普段通りだった。血を吐くような心当たりもない。血を吐いた経験もなかった。彼はいろいろ考えをめぐらせた。もしかしたら知らない間に健康を害していたのかもしれない、と彼は思った。彼は生まれつき肉体が頑健だったために、自らの健康を過信するきらいがあった。医者にも長らくかかっていなかった。雲より高いこの家における、酸素の薄い環境での生活が、いつしか身体に悪影響を及ぼしていたのかもしれない。でもだからと言って、何の前触れもなくいきなり血を吐いたりするだろうか?

雲は依然として赤いままだった。葡萄酒を浸したようだとか、ペンキをぶちまけたみたいだとか、いろんな比喩表現を思いついたけれども、もっともイメージに近く、最も似ているのは、やはり彼の口の端から今もだらだらと流れている液体の色なのだった。彼はまるで自分が吐いた血によって雲が赤く染まったかのような錯覚を覚えていた。というより、もともと誇大妄想的な傾向がある彼は、そのときほとんどそう信じていた。
彼はまたカップを手に取り、紅茶を飲んだ。まるで何も起こっていないような態度で。その液体に味は感じられなかった。しかし彼はそれを残らず飲み干した。

血に汚れた服で家に戻ってきた主人を見て、家政婦の老婆は悲鳴を上げた。彼がどこかで人を殺してきたのだと思いこんだのだった。彼は老婆からつねづねそんなことをやりかねない人間だと見なされていた。
ちょっと血を吐いてしまったんだ、と彼が言うと、今度は老女はうって変わって彼を心配しはじめた。彼女に言われるがままに彼は服を着替えベッドに横たわって安静にしていた。どこからか医者が呼ばれ、彼は診察を受けたが、やはり身体に異常はなかった。そのあと二度と血を吐くこともなかった。彼も家政婦の老婆も、やがてその出来事を忘れた。でもそれ以来、彼が紅茶を口にすることはなくなった。