懐かしい道

ある路地に入り込んだとたんに、だしぬけに懐かしい気分に襲われた。そこにあるすべてのものに見覚えがあった。それは僕がよく知っている道だった。ずっと以前のある時期、僕はこの道を頻繁に往復する機会を持っていた。何年も前、おそらく10年以上も昔のことである。その頃、僕はある人に会いに行くために頻繁にこの道を通った。気まぐれな散歩が導いたのは、そんな懐かしい道だったのだ。

どういうわけか今日ここに来るまで、僕はその人物のことを完全に忘れていた。僕にとって大事な、大切な人だったはずなのに、何年も思い出さずにいるうちに、記憶から消えていたのだ。そして今では名前さえ思い出せないでいる。どうしてそんなにきれいに忘れ去ることができたのだろう?そのことが自分でも信じられず、僕はしばらくの間ほとんど放心したようになった。

その道にあるいろんなものを歩きながら一つ一つ目でたどる。ある家の庭先に垂れ下がる羊の形の風鈴、奥まった崖沿いにぽつんと建つ古い小屋、ある壁に刻まれた落書き、神社のそばの中ほどから折れた大きな木、全てが昔と同じままの様子をしていた。そのうちに頭の中で少しずつ人の形の像が実を結びはじめていた。その人は、ずんぐりした体系をしていて、色が浅黒く、黒い髪の毛はいつも濡れているみたいだった。そして高い声をしていて、ときどき笑いをこらえるようなしゃべり方をした。顔だちは比較的整っており、しかし目は細く、色はどちらかと言えば黒かった。僕はその人物に対して普通よりは大きめの好意を持っていた。そしてそれは最後まで変わらなかったはずだ。たとえばひどい仲違いをしたり、あるいは悲しい出来事があったために記憶から抹消したとか、そういったことはなかった。我々は友好的な関係のままいつしか会わなくなった。
そして身体的特徴や顔や声色が思い出せたあとでも、名前だけがどうしても思い出せない。

ちょっとした迷路みたいなこの道が途絶えたところに、その人の家がある。途絶えるというのはつまり、それより先は歩道がなくなるため歩行者は通行できないのだ。僕は一度もそれより先へ行ったことはない。
曲がり角を曲がるとその家まではあと数十メートル、周辺の景色も嘘みたいに昔と変わらない。しかし当時の気分や思い出のようなものは、特によみがえっては来なかった。

曲がり角からちょうど50歩歩いたあと、僕はその家の門の前に立っていた。よく知っている家。何度も入ったことのある家。僕は表札を見つめる。そうだ、確かにそういう苗字だった、と僕は思う。この家には当時と同じ家族が今も住んでいるのだ。それであの人は今、この家にいるのだろうか?しかしそのことを確かめるつもりはなかった。インターフォンを押す勇気もない。僕は来た道を引き返して帰った。