ある休日

子供たちの学校や幼稚園が長期の休みに入ると、妻はときどき子供たちを連れて実家に帰る。それで3月のある日、いつものように妻と子供はそうやって宇部の実家へ帰り、僕は一人で家に取り残された。家族が不在のその2日間を僕は休日にした。自分一人だけで過ごす休日。僕の仕事は自分の裁量で時間を使える種類のものなので、定まった休日というものが存在しない。放っておくと毎日働き通しになってしまうので、どこかで自主的に意識的に休日を作らなくてはならない。もっともめったに働き通しのことなどない。ちょっとしたことが理由で、たとえばたまたま目に入った空の雲の形が気に入らなかったからとか、道端でごみが荒らされているのを見たからとか、お気に入りのお皿が割れたからとか、そうした理由で何もかもが嫌になって、一日寝て過ごすこともある。

朝の6時に目が覚めて、僕は朝食にフレンチトーストを作って一人で食べた。休日にフレンチトーストを食べたくなるのは子供のころからの記憶のせいかもしれない。家族で朝てそれを食べていたときの気分は幸福なイメージとして残っている。ダイニングは静かで窓からおぼろげな光が差していた。そこにフレンチトーストの甘い香りが混ざり、その中で僕は食べ物を平らげた。コーヒーは3杯飲んだ。
そのあと僕は縁側の椅子にもたれて、何をしようかと考えながら何もせずに過ごした。いろいろな選択肢を浮かべながら、そのいずれも実行に移さず、ひたすらぼんやりする。庭を眺めながら懐かしい気分になっていた。庭には眺めて楽しいようなものは特にない。小さな花壇があるだけで樹木は一本もない。昔ちょっとだけ住んだ一軒家にも狭い庭があった。ススキばかりが生えていてその対処が大変だった。そんな庭ですら今では懐かしく感じる。懐かしさというのは悪くない気分で、僕はときどき前触れもなくだしぬけにそういう気分になる。雲や樹木、トンビの鳴き声、入道雲、台所で何もしないのに食器がガラガラと音を立てて散らばるようなとき、それぞれの事象に対応した記憶が引っ張り出され、それで僕は懐かしくなってしまう。一日の一番最初に、何かを懐かしく思うことは、僕にはよくあることだった。

台所に戻って食器を洗い、ついでにまたコーヒーを作って、それをカップに注いで縁側に戻り、またぼんやりした。そうするうちに、2、3時間が過ぎていまた。10時になると僕は着替えて外に出た。そして近所の川べりの道を歩いた。その川は季節によってカルガモとかシラサギとかセグロセキレイとか、様々な鳥を観察することができる。一度だけカワセミを見かけたこともある。青い羽をもつその美しい鳥は、僕はその実在をそれまで半ば疑っていたので、はじめて見たときには驚いた。その日はスズメとカラスしかいなかった。僕はとある公園に入り、ベンチに腰かけてぼんやりした。公園は無人だったが、しばらくすると小さな双子の女の子と、その母親がやって来て、隅にしゃがんで三人で額を寄せ合って遊びだした。僕は公園を出て、近所のうどん屋で昼食をとり、それから家に帰った。午後、ソファに寝そべって本を読んでいると、いつしか眠っていた。
インターフォンの音で目覚めさせられる。妻と子供たちが帰って来たのだと思って、思わず立ち上がったが、よく考えてみると彼らが帰ってくるの二日後のはずだった。そして壁のモニター・ディスプレイには何も映っていなかった。念のためにドアを開けたが、玄関先にも門の外にも誰もいなかったので、僕はあのインターフォンの音は、夢の中で聞いた音だったのだろう、と結論付けた。しかしもちろん夢の内容はひとかけらも思い出せない。眠っていたのはほんの数分のような気がしていたのに、時計を見るともう夕方が近かった。

それで僕は夕食の準備に取り掛かる。朝から出汁をとっておいた鍋に肉と豆腐と白菜を放り込んで茹でるだけの料理、さっぱりした湯豆腐としゃぶしゃぶ。それを炊き立てのご飯と一緒に食べる。一人で食事をするとき、僕は本を読んだりインターネットで動画を見たりはしない(それは個人的なささやかなルール)。窓の外の夕暮れを眺めながら僕は、ショウガや大葉やにんにくなど薬味を利かせて、するとご飯を一口ほおばるごとにむしろ空腹は深まるように感じられ、そうやって食べていると二合炊いたご飯があっという間になくなっていた。

暗くなっても電気をつけずにいると、窓から月明かりが差し込んだ。映画でも見ようか、それとも音楽を聴こうかと考えながら、やはり何もせず、窓辺のぼんやりした白っぽい光の中でただの夜を眺めていた。するといつの間にか時間が過ぎていて、眠くなったので布団に入って眠った。