影の国

寺院のそばの並木道を、影は音もなく駆けて行く、滑らかな毛筆の線を引くように。いつしか街に現れ、いたるところで人々に目撃されるようになったその影の正体は、いまだ不明である。そして人々はさほどの関心を示すでもなかった。人間や生き物がただの黒い影に見えることは、この地方においてはさほど珍しいことではなかった。たいていの場所は昼間でも薄暗く、夜になるとすべてが黒い布に包まれたようになる。街灯は少なく、建物の窓から明かりが漏れることもない。この土地の人々は明るいものや光を放つものを嫌う。

黒い影は増殖していた。あらゆる場所でそれは目撃されるようになった。動かずに樹木のそばで静止していることもあったし、湖の上空を煙のように漂っていることもあった。影が素早く空中を横切るとき、それは巨大な鴉の残像のようだった。
街はずれに古い灯台があるのだが、そこはいつからか影たちの棲み処となっていた。人々はしかしそのことも特に問題にはしなかった。それどころか彼らの中には、影たちの仲間に入れてもらおうとして自らその灯台に出向いた者もあったほどである。志願者たちは少なくなかったが、一人として帰ってくることはなかった。彼らがその後がどうなってしまったのかは誰も知らない。
その後も日に日に影は増え、夜になると土地は黒いのっぺりとした姿でひしめくほどになった。そしていつしか土地は影の国という俗称で呼ばれるようになる。