遠い波

雲った風の強い日の午後のこと、ケイはひとりで坂道を下っていた。一緒に帰っていた友人とついさっき別れたばかりだった。二人は帰り道でほとんど口を利かなかった。機嫌を損ねていたのか何なのか、ケイにはわからなかったけれども、友人はまるで不機嫌を伝えようとするかのように、ケイからなるべく遠ざかって早足で歩いているように感じられた。二人の間隔はだんだん開いてゆき、途中からはケイは数メートル先を歩く友人の背中を追いかけるかっこうになっていた。ケイは友人の態度に戸惑っていたが、彼もまた決して自ら積極的におしゃべりするたちではなかったので話しかけたりすることもなく、お互いに黙ったまま同じ感覚を保っておよそ一キロの距離を歩き、そして挨拶もせずに別れたのだった。
友人は転校生なのでケイとの付き合いはそれほど長くはない。しかし家が近かったこともあってすぐに仲良くなり、一緒に登下校するようになった。友人の機嫌が悪かったように見えたことが、ケイの心をざわつかせていた。一人で歩いていると、風が音を立てて吹きすぎていった。その風の冷たさは秋がもう近いことを感じさせた。
坂道の右手側は墓地になっている。緩やかな傾斜に沿って段々と墓石が立ち並び、灰色の雲がその上空を引きずられるように流れていった。
遠くからトンビの鳴き声が聞こえた。普段は何とも思わないのに、ある気分のときにその鳴き声を聞くと、ケイはひどく悲しい気分になってしまう。そしてまさしくそのときケイはそういう気分だったので、重苦しい灰色の雲と冷たい風の音ともあいまって、彼はほとんど泣きだしそうになった。なぜかケイは家の襖に描かれていた絵を思い出した。川に浮かぶ一艘の木舟と遠くに連なる山々が淡い線だけで描かれたあの絵の風景も寂しかった。あの景色にもきっとトンビの鳴き声は似合うだろう。そういえば空に鳥の影も描かれていた。あれはトンビだったのかもしれない。
曲がり角を曲がると家まではもうそれほどの距離はない。ケイはひどく遅い足取りでとぼとぼと歩いていた。ある古びた家の前に埃をかぶった黒いワゴン車が放置されていた。前輪がパンクしてつぶれており、車内にはいろんながらくたがでたらめに押し込まれている。そばを通りかかるたびに、ケイはガラス越しにその車の中を覗き込んでしまう。見たいものなどあるはずもないのに。ずいぶん前に空き家が取り壊されて以来更地のままの一角では、雑草が伸び放題に伸びて地面を覆っていた。名もない背の高い草が風に揺れて『売却予定地』と書かれた立札の表面をこすっている。
そんな景色を眺めながら、ケイは何度か身震いした。それは風の冷たさのせいばかりではなかった。
それにしても、どうしてろくにちゃんと見たこともないあの襖の絵の内容を細部まで覚えていたのだろう。ケイにはそのことが不思議だった。家に帰ったら、もう一度ちゃんと見てみよう。きっと何かがあの絵にはあるんだろう。心をひきつけずにおかない何かが。
波の音が聞こえた気がして、ケイは立ち止まった。でも音が届くはずはない。何しろ海はずっと遠くにある。