フィクション

公園で

公園で女がブランコで遊んでいた。マシュマロみたいに肥っていて、どう見ても一人でブランコで遊ぶのが似合うような年齢の女ではなかった。つまり子供ではなかった。しかも女はときどき一人で声をあげて笑ったりした。彼女の重い身体を乗せたブランコの金具…

電車に乗って遠くへ

とにかくイライラしていたので、旅に出ようと思った。するとその次の瞬間には、僕は電車の座席に座っていた。駅に行って乗車券を購入したり改札をくぐったりした記憶がない。考えてみれば怖ろしいことだが、気にしないことにした。窓の外の景色はすでに見慣…

変な知らない女に声を掛けられる

お店の入り口をくぐろうとしたとき、そばに立っていた女に声を掛けられた。女は僕に、簡単な質問に答えなければ入店できない、と言った。その時点で立ち去ってしまえばよかったのだが、僕はそうしなかった。ほんのわずかに僕は興味を覚えてしまい、つい女の…

あるお洒落なパスタ屋

あるお洒落なパスタ屋に入ると、店内の客たちが一斉に僕のほうを見た。それもちらと見るのではなく、じろじろと、まじまじと、無遠慮に。僕は気にしないふりをしていたが、それは成功しなかった。動作はひどくぎくしゃくするし、店員に注文を伝えるときには…

面接に行って、絵に描かれる

小倉南区にあるイタリア料理店のアルバイトの面接を受けにいたときのことだった。店長が自ら僕を面接した。一通りのやりとりを終えた後、店長は「じゃあ最後にちょっと絵を描きますんで」と言って、手元にあったA4サイズほどの白い紙に鉛筆で僕の絵を描きは…

瞼の暗闇が、とても暗いこと

今日は変わったことの何もない一日だった。嬉しいこともなければ、ストレスを覚えることもなかった。起伏に乏しい時間がただ流れてゆくだけの平凡な一日。こんな日は意外と、人生にそう何度もあるわけではない。夜、入浴と夕食を終えて、ソファにもたれてぼ…

私は真珠

毎日一枚ずつ新しい布をまとうように、私の肉体は新しい色に更新される。でもその色は目に見えない。あたりが暗すぎるのだ。私自身でさえその色を目にしたことがない。洗われた卵のように澄みきった、滑らかな虹色の光沢がそこにあるはずなのに。いつかこの…

赤いテープの部屋

それは友人というほど親しくはないが顔を合わせると結構長く話し込むという類の知り合いであり、今夜も僕はバーでその男に出くわし、お酒を飲みながら話していた。僕はの職業も年齢も、名前すらも知らなかった。都会で人と付き合うとき、そうした情報は意外…

シェアハウスの思い出

かつてシェアハウスで暮らしていた。そこでは住人がしょっちゅう入れ替わった。いろんな人がつぎからつぎへとどこからともなくやって来ては去っていった。いちばん短い人は、1日しかとどまらなかった。その人物は、シェアハウスに一歩足を踏み入れるやいなや…

入学式の朝

午前4時過ぎに目が覚めて、そのあと眠れなかったので寝室を出た。リヴィングでカーテンを開けて外を眺めると、外はもちろんまだ暗く、どの家の窓にも明かりは灯っていない。なぜか心細くなり、コーヒーを作って飲んだ。夜が明けて朝になるまではあと数時間、…

ものすごい雨

4月は憂鬱な季節。だから今日も会社を休んだ。こうやって欠勤を続けているといずれクビになるのだろうか、でもそれも悪くはない。朝早く目覚めた僕は、ベッドの中で横になったまま、鳥の鳴き声を探っていた。鳥の声が聞こえてきたらベッドを出ようと思ったの…

夜中の電話

そういえば夜中に電話がかかってくる夢をみたなあ、と思って、そのことについて考えていると、だんだんそれが夢ではなく現実のような気がしてきて、念のためにスマートフォンの着信履歴を確かめてみると、実際に夜中に着信はあった。そして僕はそれに応答し…

這いまわる蛇

床中を無数の蛇が這いまわっている幻覚を見るようになって、ベッドから起き上がれず、外に出られなくなり、大学に通うこともできなくなったのは春のことだった。あれ以来何度の春が過ぎただろう。あのときは真剣に死ぬことを考えていたのに、なんだかんだで…

ある悲愴なお菓子作り

4月なのにどこか冷え冷えとしたキッチン。卵や小麦粉や砂糖をボウルの中でかき混ぜながら、僕はずっと泣いていた気がする。いや、たぶん実際には泣いてはいなかったのだが、少なくとも涙は流さなかったはずだが、つまり身体のなかで泣いていたのだ。涙がもし…

キノコ都市

高さ212メートルの展望台の頂上から街を見下ろしていた。どの家も屋根の部分がやたら大きく横に広がっていて、その形はどこかキノコに似ている。同じような家が密集して、地の果てまでずっと並んでいた。隣には現地のコーディネーターの青年がいる。キノコ畑…

(夫婦間の)ある出来事

ある日の入浴中、洗面所にいた妻と扉越しに話しているうちに口論になり、頭に血が上って、浴室の扉の擦りガラスを思い切り蹴った。ガラスが割れて散らばり、浴室の扉の下半分が割れて無くなった。僕は破片で足の甲を切って怪我をした。妻は黙って洗面所に立…

森の古本市

森の中には広場があり、ある秋の休日、そこで古本市が開かれていた。片隅に差し込む木漏れ日のもとに本が並べられている。多くはありふれた本だったが、木漏れ日の照明による効果のためか、どの本もどことなく上品に、あるいは貴重そうに見えた。僕は『ノー…

夜明けまでの7分

夜通し歩き続けてたどりついたのは墓地だった。片隅にあったベンチに倒れこむように横になり、眠ろうとして目を閉じたが、疲労はあまりに深く、ほとんど痛みを伴っていて、ただ浅い無意識を何度も繰り返しながら数時間が過ぎたが、夜はなかなか明けず、あた…

消灯

夜の都市を見下ろしながら、暗い地表に点々と散らばる光を数えていた。それは数えられる程度の数しかない。かつてこの場所からの夜景は、光に満ちていた。地表は粒のような光に埋め尽くされ、連なる車のヘッドライトは川のように流れて、地の果てまで伸びて…

音楽は高い場所へと連れて行く

ひどい気分だった。その辺にあるものを手当たり次第に壊したい気分だった。不穏な雰囲気が伝わるのか、周囲の人々は僕を避けて歩くようだった。広場の前を通りかかったとき、騒々しい音が聞こえた。広場の片隅にいる人物が発する音であるようだった。どうせ…

自由

今、彼は檻から放たれた。そのことを喜ぶあまり、草原を駆け回っている。しかしある地点で足を止めた。目の前に壁がそびえていたのだった。とても高く、上のほうは雲に隠れている。手を触れてみたところ、とても固く、いかにも頑丈そうだった。 壁に沿って歩…

かけがえのない思い出

ビルに囲まれた駐車場からは空の断片しか見えない。カー・オーディオのスイッチをONにすると音楽が流れ出した。彼女はシートにもたれかかり、目を閉じる。そして何度目かのため息。ひどく疲れていた。休日まであと3日もある。その日になったところで予定はな…

ずっと一緒に

男は車から降りて周囲を見渡した。湖畔には雨音が響き、動くものの姿はない。男は湖のほとりに立って雨粒が跳ねる湖面を眺めた。傘もささずに、彼は濡れることを少しも気にしていないように見える。男は車に戻り、助手席のドアを開け、そこに座っていた女を…

甘い痛み

彼はクセナキスの音楽を聴きながら泣いている。その手の音楽を聴くとき、彼はいつも胸を棘で刺されるような痛みを覚え、その痛みが涙を流させる。まるで胸の奥にウニに似た生き物が潜んでいて、それが難解な現代音楽を聴くときに限って姿を現して自由に動き…

愛への喜び

父の用事が終わるまで、僕は一人残ることになった。どこかその辺で遊んでいなさい。ビルの外には出ちゃあだめだよ。僕は父の言いつけを守った。何しろ父は怖い存在だった。僕は階段を使ってビル内をあちこち見て回ったが、面白いものはなかった。どのフロア…

その日の後悔

乗り込んだタクシーの運転手は、どういうわけかひどく不機嫌で、信号待ちで車が停まっている間など、意味もなく両手でハンドルをバンバンと強く叩いたりした。そして走り出すとすごいスピードを出す。そのため一般の自動車やバスなどから、何度もクラクショ…

旅立ちの日

その日は雪だった。飛行機は予定通りには飛び立たず、一時間ほど遅れてようやく搭乗のアナウンスがあった。今日を最後に僕はこの土地を去る。そんなに悪い気分ではなかった。心細くて、でも同時にかすかな期待に胸を震わせている、この気分。この先雪を見る…

きっと大丈夫

夜中、部屋の隅の花瓶に活けた百合の花を見ていた。なぜそこに百合の花があるのか、彼にはどうしても思い出せなかったが、眠れずに暗い部屋の中で目を凝らしていると、だんだん闇の中にそれが浮かび上がってきたのだった。ひとつだけまだ開いていないつぼみ…

踊ってるみたいな気分

地平線がギザギザ。 視界がゆらぎ、地平線が真っ直ぐにならない。 波打つ地平線の切れ目から、野原を埋め尽くす緑色が噴水のように吹きだしていた。それは垂直に逆方向の滝のように伸びて空に達し雲を貫いている。それだけでない。緑は時々灰色になり、また…

君にあげる

影は道路の上に長く伸びている。やがて高い足音が聞こえてきたので彼は動き出した。物影からいきなりにゅっと現れた彼の姿に、女は驚いたらしく、ひゅっと息を吸い込む音をたてた。目の前に立った彼の姿を、女は不審そうな目つきで見上げる。彼は、自分の姿…